「このままじゃ二年生になれないよ」

 

「出席日数が足りなくて、二年生になれない」
その台詞が意味するところはおそらく社会からの脱落であり、母親の口調や態度から察するにそれはものすごく恐怖すべきことのように思われた。
この頃にはすでにもう人生にはある程度のコースが設定されていることを非言語的に理解していて、そこから外れることの恐ろしさ、そして万が一そこから外れてしまったら人生は終わりなのだ、という脅迫をすでに内面化してしまっていた。

 

子供の頃は何もかもが怖かった。
有り余るほどの命を発散するかのごとく走り回ったり大声を上げたり騒いだりする同い年の子たちの気持ちなんて、さっぱり分からなかったし、分からないことが怖かった。
同じ日本語を喋っているはずなのに、知的なレベルが違ってまったく話が通じないのがたまらなく嫌だった。
相手に理解してもらうべく根気よく話を続けても、急にどこかに駆け出していったり途中で集中力を切らして上の空になる同級生たちにいつも苛立っていた。お遊戯や勉強や先生の言うことについて自分に理解出来ることをどうしてほかの子が理解できないのか分からなかったので、大人しかったのについ上から命令口調になってしまうようなところがあったし、経験の積み重ねから自然にひとを見下した素振りが身に付いてしまっていて到底好かれるタイプではなかった。
周囲のことをとても怖がっているのに、同時に蔑んでもいるという複雑な対人関係のベースはこのときすでにほぼ出来上がっていた。

 

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わたしはかなり幼い頃から容赦なく殴られて育った。
口で母に勝てない父はもっとも容易に相手を従わせる手段として暴力を選ぶようになったと見えて、夫婦喧嘩の際にも子供を叱る際にもすぐに拳を振るった。母は母で、父よりも少なかったけれどやっぱり自分の都合で子供に力を振るったし、何よりもひどく心をえぐるようなことを言うひとだった。
どちらもしつけと称して振るわれる暴力だったから、わたしたち子供はずいぶん自分のことを悪い人間だと思って育つのに充分な環境にあったし、悪いから殴られても仕方がないと親を憎みながらもどこか受け入れてさえいた。

 

子供の哀しいところは、「結局は親を愛している」というその一点に尽きる。愛されていたいから、愛を餌にされて親の言う通りにすすんでコントロールされてしまう。親の要求や価値観に応えられず、もう愛などいらないと諦める素振りを見せれば、今度は生存にあたって必要な援助(つまり住居や衣服や食事など)を打ち切るという策をちらつかされる。
嫌なら出て行きなさい、というきっとほとんどのひとが幼少期や思春期に聞いたことのある台詞は、その裏に「お前の命をもう保証しない」という意味を抱えているのだ。
生殺与奪の権利を持つ親のことはもちろん、それが属する大人についても当たり前に恐れを抱いていた。
何に怒り何にその平手や拳を振り上げるかを把握し、把握しているつもりでなるべく殴られないように言動を心がけてもその見込みが外れることもあるし、殴らない人であってもその価値観でどう自分を裁くかが分からない。
不安を抱え、人の顔色をうかがっておどおどすることは、自分を心や体の暴力から守ることでもあった。

 

「自分が裁かれることを恐れる」感覚は、ただ身体の危険による本能の恐怖とはまた異なって、非常に対社会的なものだった。この世には自分には分からない「正解」があって、それを探って則ることが社会に認められることであり、引いては愛されることであり、それはつまり生きていても良いと承認されることだと思っていた——が、こう書くと社会的な恐怖も根源的には命が感じる恐怖とそう変わりなく思える。
社会から脱落することは生きる価値がないという烙印を押されることであり、だったら死しかないのではと思い詰める思考回路からなかなか自由になれない。
理由もなく生まれたというのに、生かされ続けるためには社会からのたくさんの許可がいるものだと、長らく思い続けてきた。

 

だからわたしは正解を求めて、それを探り当てることに全神経を集中させる子供だった。そして誰かに「褒められるか」「怒られるか」を正否の判断の基準とした。けれどこれはあやふやで一定ではなく、大人の気分次第ですぐに変わる頼りないもので、幼い子の情緒を不安定にさせ、またひどく疲弊させた。
大人が感情をむき出しにして怒鳴るとき、それはわたしのためを思って「叱って」いるのではなく、むしゃくしゃして「怒って」いるだけなのだと物心ついたときからとうに見抜いてはいたけれど、だからといって大人の歓心を買うことを馬鹿らしいと思えるほど冷めた精神は保てなかった。
正解などどこにもないのだと、あえて言うならばそれは自分自身がどんな人生を生きたいのかをはっきりさせたときに見えてくる指標であって、人によって答えが異なるものなのだと気づくこともできなかった。
それらを求めるには残酷すぎるほど六つや七つの子供はまだまだ子供で、そして当然子供でいてよいはずだった。

 

一方的な理由で怒りをぶつけられることに対して親も(それはとても不完全な)人間だからと居直られては、怒りの排出先になる子供は理不尽を飲み込み、耐えるしかない。
幼い頃、父方の実家と折り合いの悪かった母はノイローゼ気味だったように思う。
ある日、わたしは小学校の数少ない友人を連れてきて家の二階で遊んでいた。
成り行きで鏡台の椅子から畳にジャンプしようということになり、まずわたしが飛んだのを覚えている。その瞬間ドッカドッカと血眼になった母が一階から駆け上がってきて、大声で「うるさい! 飛ぶなって言っただろう!」と叫んでお尻を打った。母の形相があまりに異様だったことから友人たちはひどく萎縮し、もう家に来てくれることはなかった。

 

子供にも社会がある。だからもちろんプライドもあるわけで、だけど小学生にもなって友達の前でお尻を叩かれることがどれだけわたしの社会的な体面を傷つけたか、きっと母には想像もし得なかったことと思う。父にこそよく殴られ時には浴槽に沈められたりもし、拳を前にすれば子供は大人しくなるということに味をしめて「バチバチ殴るぞ」と嬉しそうに言っていた姿を嫌悪はすれど、直接的に友人の前で醜態を晒すことにはならなかったから一つ一つの暴力を克明に覚えているわけではないのだろう。

前に飛んだときには、確かに注意はされたけどそんなに怒られなかった。
だからこの日わたしはジャンプしたはずで、だけどそんな言い分はもう誰にも聞いてもらえないし、書き起こすまでかつて子供だった自分がどんなにこの些細な出来事を不満に思っていたか気付きもしなかった。こんな風に弔われもせずに積み上げられていった亡骸が、わたしの背後にはおびただしいほどゴロゴロしている。

 

同い年の子供が何を考えているのかも分からず苛立ちを募らせ、大人の移ろいやすい感情の動きを正否の判断としてきたわたしはいつでも恐怖とともにあって、自分の人生を自分で見出だす方法を知らずに来た。
社会の枠組みにはまることこそが正解であり、命の保証になることと信じて恐怖の奴隷となってきたわたしには、二年生になれない、というのは死刑宣告そのものだった。

 

 

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