蚕は眠っていたかった

 

それは物語めいた田舎だった。
鬱蒼とした森のふもとの屋敷にわたしたち家族は住み移り、そのほとんど幻みたいに薄暗い箱で長い三年を過ごした。七つの歳の冬が終わるまで、わたしが知っている世界は家から半径二百メートルにも満たない景色だけだった。森、家の正面に見える土色の川、そして対岸の今にも吹き飛ばされそうなトタン屋根の家屋の連なり。けれど橋の向こう側はなんとなく異世界で、そこは知らない人たちが生活を営む「社会」であり、もうわたしやわたしたち家族の文法の通じない世界といった感があったから、自主的に橋を渡ることはなかった。

 
幼稚園に通い出したのは年長クラスの途中からだったから、それまでのモラトリアムは日がな一日落書きをして過ごし、時には一日に百枚超もの絵を描いて次々にお絵描き帳を埋めていった。
赤いビロードのソファに横たわって昼寝をし、目が覚めたらいちごみるくの飴を舐め、終わりにかけてすかすかになっていく飴玉を蝉の抜け殻を噛み砕くみたいにしゃりしゃり鳴らして、クレパスを画用紙に走らせた。
紙に向かっているときだけがほとばしる命を自在に生かし、それに忠実になれる充実した時間だった。

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教育の方針というよりは、あまり衣食住以外に心を潤わせたり楽しませたりすることに特段意味を感じない母親の感性のせいか、その年頃の女の子が欲しがる人形や着替えのセットなどを買い与えられることはなく、絵に飽いたら物語を書き、カセットテープに朗読を吹き込んで遊んだ。
本当は欲しかったのに、金髪で手足の長い女の子のお人形も、彼女たちのための小さなミニスカートから舞踏会用のドレスへの着替えも、魔法のステッキやティアラも、そんなものは「くだらないよ。お前はやけに子供っぽいものをほしがるんだね」とでも言いたげな反応に欲しいと口にも出せなくなっていった。

 
子供なのだから子供っぽくて良いのだと言ってくれるひとはいないから、おもちゃを欲しいと思ってしまうことを恥ずかしく悪いことのように思っていたし、だけどもう少し成長してから「子供らしく(素直に快活に無邪気に)していなさい」という矛盾に満ちた注文をつけられるようになる頃にもまだ、かすかに感じ取っていた違和感を飲み下すほかに自分の幸せのために出来ることを知らなかった。
それに加え「(子供らしく、性の匂いをさせない程度に)女の子らしくしなさい」という呪いが自分の身にこびりついているのをはっきり知るまでには、長い長い時間がかかった。

 

人はよく子供の頃に戻りたいというようなことを言うけれど、感知不能な呪いを幾重にもかけられ、拘束された身にさらに親の期待を背負って社会の顔色を伺いに出なくてはならなかったあの時期を思うと、しなびた体の芯がもう勘弁してくれと絞り出すのが聞こえる。

 
結局、秋あたりから編入した初めての幼稚園には馴染めず、一年の半分以上は病気をして過ごしていた。「なすのひろこちゃん」という気の強い女の子がいて、その子のペースも雰囲気も声も発言も運動神経の良さや身体性の強さも、とにかく全部が自分の感覚の規格外で、園で顔を合わせるたびに町でマウンテンゴリラに出くわすような、整合性がなくて納得のいかない恐怖を感じていた。
はっきりいじめられていたのかどうかは分からないけれど、何かいつも強く命令口調で理解できないことを言われ、うろたえているうちに仲間はずれにされていたような気がする。
言葉が充分に発達していない同い年くらいのプリミティブな子供たちの中に入ることは、興奮した猿山の折の中に放り込まれるようで、どっと押し寄せる混乱と憤りに日々激しい疲れを感じていた。

 

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ずっと誰かと遊ぶのは好きでなかったから、同い年の子供が近所にいないこの土地を寂しいと思ったことはなかった。紙とクレパスとカセットテープが一番の友達だった頃には、流行っているおもちゃを持っていないことも、流行っているテレビ番組を知らないことも、誰ともうまくいかずに自分が孤独であることも、知らずに済んでいたのに。
日の射さない家の中で必死で守ってきた内側の世界が、徐々に浸食されていく。流氷が溶けて自分が立っていられる場所が暴力的に削られていくのを、なす術もなく見つめていた。

 

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