こんなにも死から遠い

早めの退社が許された仕事納めの夜、胃けいれんに似た激痛と激しい嘔吐に襲われて救急車で病院に搬送された。

***

夜の食事のあとしばらくして、悪心を覚える。平らげたサラダとローストビーフとトマトベースのパスタといちごの乗ったケーキを順に思い浮かべてベッドに横たわる。床に投げ捨てたままの鍵とコートを見ながら、すぐによくなるよと暗示をかけた。実際、ちょっと眠れば魔法みたいに何もかもなかったことになるだろう。お酒は飲まなかったし、チョコレートをかじるみたいにタバコに手を出してもいない。

がくっと落ちるような短い眠りから覚めるとひどく寒気がして、火のない部屋は落ちた先の夢の続きかと思った。体を温めようと入浴するも胃の痛みはいよいよ気のせいでは済まされなくなり、同時に吐き気はあるものの自然に嘔吐するには至らず、何度か滴をまとったままトイレと風呂場を行き来してそのたびに喉に指をあてがった。試みは何度か成功し、温かくぬめるでこぼことした喉の感触を伝える指先は、最後には爪の周りの皮を酸と唾液で皮膚を傷つけそうなほど固くしていた。

とうとう腹部全体の痛みに堪え兼ね、床に這いつくばって濡れた髪をかきむしり咆哮するうちに深夜になっていた。救急相談に電話すると、看護士はいまのところほかの電話対応に追われておりコーディネーターの自分しか相手になれない、君の住所を教えてくれたらすぐに近くの病院をいくつかピックアップする、と老紳士めいた声が告げた。吐き気の奥から住所を絞り出すとすぐにテープに切り替わり、いくつかの病院名とその電話番号、住所が流れ始めた。二件聞いて何も頭に残らないのでそのまま電話を切り、結局キーボードを叩いていくつのかの病院をあたってみた。一件目、若い研修医らしき男が気だるそうに「うち内科今日やってないんで」と言い、二件目では受付の女の子からベテランっぽい医師に回され「痛みが激しそうだからちゃんと大きな病院で見てもらった方がいいよ」と言われる間に嘔吐した。寒さと痛みと眠気で気が遠くなりかけた頃、119コール。何度も痛みで中断しながらも名前と住所を伝えるが、しばらくして「もう一度、ゆっくり、お名前と住所を言ってください」と返される。大声で同じように告げるが届かず、なんでだろうと困惑したところでスピーカーモードにしていないにも関わらずスマホを手に持たずに話していたことに気づく。ここまで頭が働いていないのかと少なからずショックを受け、確かめるようにちゃんと服を着て、財布を持って床を這って玄関で伏して救急隊を待った。

救急隊が到着し、ドアに寄りかかりながら鍵を開ける。もだえながら長い髪の間から彼らの姿を何度か見たが、何人来てくれたのかはわからなかった。
「がんばりましょう、下にベッドを用意してますから」
エレベーターでエントランスに降りると固いビニール膜でコーティングされたベッドがあって、そこに身を横たえ「このまま移動します」と声をかけられたところで二度嘔吐。「水が多い」と聞こえる。ベッドが走る音を聞きながら体が浮くような感覚を覚えたら急に外気に触れてつんと寒くなり、そろったかけ声でもう一度体が浮いたかと思うとすでに救急車の中にいた。いつ頃から痛いの、と聞かれて夕方の六時か七時、と答えると「昨晩の六時から七時の模様」と誰かに伝えるような声が聞こえる。昨晩? と言うと「いま、深夜一時半。日付を回ってるんだよ」とのことでそんなに長く苦しんだのかとめまいがした。名前の漢字や年齢、詳細な症状や同じ症状の人間が周囲にいなかったかなどを聞かれるが、痛みと繰り返される嘔吐のためにスムーズに受け答えが進まない。ほとんど固く目を瞑っていたが、車内天井にはいくつかのカラフルなぬいぐるみが飾られていて、ぼんやり「そうだよなあ、子どもも乗るんだよな」などと思った。

病院に運び込まれると即座に引き継ぎがなされる。救急車のお世話になるのが四度目ともなるとこの別れ際についてもなんとなく覚えていて、これでこの人たちは帰っていってしまうんだとさびしかった。アナフィラキシーショックで死にかけたときにはたしか、お礼一つさえ言えない状態のわたしの名前を呼び、一同「がんばってください!!」と叫んで去って行ったが、今回はそれとは比べ物にならないほど軽症だったためだろう。医師への引き継ぎだけで終わった。
痛みに耐えきれず叫び始めて数時間にもなるので体力の消耗は激しく、眠気が強かったが痛みが寝かせてくれない。身をよじって医師の質問に答えていくが、研修医らしい彼は同じ質問を何度もし、わたしもそれに何度も答えた。「ほかに薬は飲んでいますか」「ホルモン剤を」「ピルですね」「はい」「生理が最後に来たのはいつですか」「……二十五、いや二十日前です」「ちゃんと生理はきていますか?」「はい、薬を飲んでいるので」「あ、そうか…」痛み止めを打ってくれと懇願するが検査が終了するまでは無理だとのことで承服。研修医くんは採血が苦手なのか、左腕でずいぶん粘ったようだがうまくいかず、結局手の甲に浮く血管から採ることになった。
一番死に近かったあのときは、まず有無を言わさずここに針を入れられたんだった。ほとんど意識がはっきりしていなかったが暴れないよう強く押さえつけられ、筋張った手の甲にぐいぐいめり込ませるように針が入っていったのはよくわかった。久しく胃痛以外の痛みで声をあげ、「痛い、痛いよね」とつとめて穏やかに言いつつも焦りを隠しきれていない彼の横顔を見た。睫毛の長い綺麗な子だと思った。レントゲン技師が来る。大きなレフ板みたいな板を持ってきてベッドに敷き、指示に従って撮影、それからまた別の角度で一枚。研修医くんがエコーを始め、何度か「あ、ゼリー足りない」などと言いながら腹部をなぞっていった。「痛いのはわかるんだけどね、あんまり身をよじられると見えないからちょっと我慢してください」その間にも二度嘔吐し、よくわからない乳白色の粘液だけが枕元の容器に浮いていた。

手の甲から入れられた点滴のうち、吐き気止めと胃薬が効いてきたのと疲労から、明け方四時にはうつらうつらしていた。寒いです、と言って毛布を四枚持ってきてもらい、それでも震えながら残りの痛みと戦っている間、研修医の彼は難しい顔をして何か打ち込みながらモニターを見つめていた。「いまね、血液検査の結果が返ってきているんですけどね。炎症反応なし、ほかにも気になる値なし、心電図も正常の範囲内、エコーもどの臓器もクリーンで……」ふ、と諦めめいた笑みが思わず漏れて、「わからない(んですよね?)」と言うと彼も小さく笑ってばつ悪そうに「わからないんです」と言った。腹痛で若い女性に多い理由は生理不順と便秘です、と言われると、また笑いそうになったがもうその力は残ってなかった。
針を抜くとき、「痛いかもですよ」と言われたが想像の三倍は痛く、ガムテのようなテープを思い切りよく剥がされたあと、いくつも体につけられていたパッチつきのコードを取って、転がり落ちるようにベッドから出た。さっきまで自分がいたベッドを見ると採血失敗時のものかシーツは血まみれで、長い長い間ぎりぎりのバランスで保たれていたガラスの塔がかしゃり、と飴細工が割れるときの音を立てて崩れていくのを感じた。いま持っている生活の一切を捨ててしまおうと思った。

点滴はしていたものの脱水っぽい手足の震えと内臓の痛みはしつこく残り、まっすぐ歩くのは非常に難しかった。先ほどまでは引いていたはずの吐き気が甦り、何度か壁にぶつかりながら会計に向かう。ふと思いつき、会計の担当に「薬は出ていますか」と聞くと出ていないとのことで、胃薬と吐き気止めを出してほしいと医師に掛け合ってくれるよう頼んだ。その間に自販機で買ったジュースをまるごと一本飲み干したが乾きはさっぱり癒えず、吐き気と痛みも横になっていたときよりもずっとひどかった。
会計を済ませて薬の受取所へ向かう最中に三度吐き、薬を受け取るなりその場で吐き気止めのエリーテンを飲み込む。何が理由だったか忘れてしまったが、胃薬は出せないとのことだった。

体を引きずりながら夜間通用口を探し、外に出てタクシーをつかまえる。行き先を告げると深い闇に引きずり込まれそうな眠気に襲われた。さすがに明け方近くとあってひとのいない街の灯を薄目で眺めながら、死はこんなにも遠い、と思った。痛みも孤独も寒さも疲れも全部こちら、生の側のものだ。だとしてもそんな全てを受け入れて生きていこう、みたいな動線と手順のわからない都合のいいポジティブさが湧いてくるはずもなく、かと言って極端に破れかぶれな心情に陥るでもなく、そうだ、こういうときの帰り道にはいつもこんな風に乾いた薄ねずの心地だった。
圧倒的に孤独、と言ってもいまは誰にも咎められないだろう。冷たい部屋に帰るのが何より嫌だったからわざとオイルヒーターをつけっぱなしにして出た自宅で常備していた胃の処方薬を流し込み、炎症反応なしと判断されたはずの胃が腫れてようやく熱が上がってきたのを感じた。寝しな、この十一年愛し続けていたひとからLINEがきていたのを知った。いわゆる誤爆というやつで、そのうえわたしにとっては訃報ともいえる内容だったけれど、おめでとう、とつぶやいて自分がこんなにも死から遠いことを改めて噛みしめて眠った。

 

 

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