ミネラルウォーターの一口目

 

某日、公的な書類が必要になって区役所に行った。
受付の女性に「本籍と筆頭者名をお願いします」と言われ、
「おそらく筆頭者たる父は亡くなっていますが」と返す。
女性が言う。
「変わりません。亡くなっていても筆頭者はお父さまのままです」
とても事務的なやり取りだったはずだけれど、
変わりません、から始まる受付の女の人の声は
まるで静かに熱い潮騒みたいに胸に響いた。
本籍地と父の名前を告げて手続きを済ませ、
殺伐として決して居心地のよくはないここにはもう用などないのに
こげ茶のソファに座る。
海が満ちて、ゆっくり引いていくのを待つ。
たくさんのひとが番号を呼ばれ、
受付に立ってはいくつかのやり取りをして去っていくのを
しばらく眺めていた。
unnamed-2

 

某日、機種変した母から
メールアドレスが変わったと知らせがくる。
これまでの母のアドレスは、知らない人が見たら
無意味なアルファベットが並んでいるように見えたと思う。
けれどわたしはそこにある物語を読み取って、知っていた。
一文字目が父の名前のイニシャル、S。
二文字目がわたしの名前のそれ。
三文字目が弟の名前のそれ。
四文字目が末の弟の名前のそれ。
だけど母の心の中は彼女だけのものであるべきだと思って、
メールアドレスの意味に触れたことはなかった。
彼女の新しいアドレスからは、
最初のSが消えていた。
ただ季節が変わるように心だって、
いいもわるいもなく変わっていくだけなんだろうか。
傷口が治癒するみたいに、
Sは消えたんだろうか。
いや、Sが消えたのは長い時間をかけて彼女に馴染んで
もうわざわざ目に見えるものにしておかなくても
いいくらいに自然に、
自然に消化できたことの証なんだろうか。
「変更しました」と返信して
スマホをポケットに放る。
彼女が語らない物語は彼女だけのものだから、
わたしから触れることは今後もないだろう。
夏はいつのまにかここ東京を去り、
わたしの素肌を撫でるのはミネラルウォーターの一口目みたいに
さらりと吹く風だった。

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