Good.

目覚めると手をつないでいた。
 

眠りから覚める瞬間にだれかの体温があるというのは、
なかなかわるくない。
けれど、それが自由を奪われるように
抱き締められているからではなく、
首を傷めそうな腕枕をされているからでもなく、
ただやんわりと手をつないでいるために感じるものである
という事実には「なかなか悪くない」以上のものがあった。
 

その手は瞳にしんと染み入るように静かに白くて
八月の男のものにしてはずいぶん冷たかった。
白さとさらりとした温度は、
丁寧にわたしの手を握るさまと相まって
壊れやすい砂糖菓子を受ける皿を思い起こさせる。
 

この手の持ち主はどんな顔をしているのだろうと
手から腕、肩、そして首へと視線を動かすと
手と同じく滑らかな皮膚を持ったあどけない寝顔が映った。
特徴的なツーブロックの髪型とほお骨の高い顔立ち、
トートバッグから覗く雑誌の文字で
彼が異国の人であることはすぐにわかった。
長い前髪が眉にかかり、くすぐったそうに瞼が動く。
車両にはわたしと彼のただふたりきりで、
アナウンスはあと三駅で終点であることを告げていた。
 

ドアが開いて生暖かく湿った空気が
汗をかかないよう整えられた空間に吹き込む。
「わたしはまだ帰れるんだよ。逆回りに乗り直せばいいの。
別にあなたなんて置いて帰っても罰はあたらないし」
 

ホームには逆方面の最終電車を待つひとたちが並んでいて、
その後ろ姿はみなふわふわしつつも
もうこの時間になったら明日のことなんて知るものかという
乱暴な気持ちと翌朝への不安とが滲むよう。
 

「でもあなただってわたしを置いて帰っても
罰はあたらなかったでしょうにね」
そして電車のドアが閉まる。
等間隔に列に並ぶひとたちと隔てられ、遠ざかり、消える。
 

IMG_1529
 

「わたしは帰れるんだよ。まだ帰れるの。次で降りればいい。
やけに交通の便のいいところに住んでいてね、
そのせいでどんなに遅く起きた朝も
だらだら準備した朝も会社に遅刻したことないの」
右手を包まれたまま、
ただ電車の揺れを受けてかすかに身体を右に、左に。
 

でももう、めんどくさいよね。めんどくさいよ。
 

——Sad?
 

驚いて向き直ると、
重そうな瞼をやっとという感じで持ち上げた瞳と交わった。
低い声でもう一度。
——Sad?
 

しばらくの間のあと、Noと短く答える。
二度目のドアの閉まる音に気づいたけれど
特に気にならなかった。
 

——Good.
 

おいしいものを食べ終えて満腹になった子どものような表情で
再び切れ長の目をつぶり、
わたしの手を握る力を強めるでもなく緩めるでもなく。
 

たしかにここは眠るのにちょうどいい場所だった。
暑くなく、静かで、だけどガタンゴトンと鳴る適度な音と
ゆりかごを思い出す規則的な揺れとがあり、
孤独でもなく、かといって煩わしさもない。
受け皿のような手は決して汗をかかず、
わたしを握りつぶすでもなく放り出すでもなく。
 

——Good.
 

目を閉じた。
明日も明後日も明々後日もめんどくさいだろうけど、
もう知らない。
いまはそんなこと知らない。Good.
 
 

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