紫煙

 
痩せた白い手首を返して、
彼女はキスする形の唇のままタバコを離した。
魂を捧げて愛した男の話は、紫煙にたゆたうようにゆっくり
落ち着いたペースで語られる。
 

人生の特別はいつも、何食わぬ顔をして現れるものなのかしらね。
 

最初に会った時はなんの印象にも残らない男だったのに、
翌朝から彼の少しアンバランスな笑顔や
薄くやわらかそうな眉やふわふわしたくせっ毛が、
なんでもない日常の端々にふと浮かぶようになった。
春先の薄いコートのポケットにいつのまにか入り込んだ
桜の花びらみたいに、
彼の可愛らしいところをいつのまにか目の裏に貼りつけて
持って帰ってきてしまったみたいにね。
 

写真-1
 

会えない間にいつのまにか恋が始まっている。
落ちるようにした恋じゃなかった。
まるでじわじわと染み込むようだった。
 

彩り豊かな歳月が過ぎて、
いつの間にかわたしたちの関係は熟した時期を過ぎ、
熟れすぎてただれていってしまったみたい。
でもわたしは忙しすぎて、そのことに気づけなかった。
あなたにも分かるでしょう、
この街で生きる20代の忙しさは半端じゃないって。
「忙殺」なんて物騒な言葉が世界で一番似合う街だもの。
 

彼、いま婚約してるのよ。
わたしより若く、わたしより健康な女のひとと。
ーー人づてに聞いたことがあるの。
それでもまだ彼も、わたしを忘れてはいないって。
 

写真
 

飛んでいって彼をつかまえたいと思った。
街中に醜態をさらして、泣いてわめいて暴れ回ってでも
もう一度わたしと一緒に歩いてほしいって拝み倒したかった。
でも、そうしなかったの。
どうしてだと思う?
 

乾いてビニールのような質感に光る唇が、
わたしを向く。
わからないーーそれが彼のためだと思ったから?
彼女はかすかに微笑んで、普通はそれが正解よね、と返す。
 

わたしよりも若く、健康で、
余計な痛みを知らないまま好きなひとと一緒になれる、
そんな女の子を不幸せにしたくなかったの。
この世に一人くらい、恵まれた女がいるのも悪くないわ。
 

お喋りの終わりに、彼女はそっとタバコに口をつけた。
細く漏れ出してしまう哀しみに
蓋をするみたいな仕草だった。
 

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