わたしは祈るようにクッキーの型を抜く

 
思考と思考の切れ目にはいつも、
「言葉」のことを考えている。
それが司る神々しい力について。
 

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わたしは特定の宗教を信仰していないけれど、
気まぐれにキリスト教の聖書の一節や
キリスト教異端のグノーシス主義なんかについて
思いを巡らせることがある。
 

イギリス・フランス旅行 270

 
旧約聖書の創世記にはこんな表現がある。
『神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。』
神は光という言葉を発することで光を創り、
その後も言葉で神意を現すことで昼、夜、海、陸などを
生み出していく。
 

わたしが着目するのは、
「言葉が発せられるときには
その指し示すもの自体が発話者の想念の中にすでに存在している」
という点だ。
神は「混沌の中を照らすものを創ろう」
と思われたから「なにか明るいもの」を望まれ、
それに「光」という名前をつけて言葉にされた。
 

イギリス・フランス旅行 271

わたしたちも同じで
例えば自らに湧き上がる感情を的確に表すために
感情に愛や友情という名を与え、
たくさんの言葉を用い、意思や想念を伝えていく。
 

言い換えれば、言葉の指し示すものは
もともとは「想念」というつかみどころのない
「あちらの世界」にあったものなのだ。
神が概念を言葉にすることで目に見えるものを生んだように、
言葉は、わたしたちの頭や胸の中で生まれたものに
はっきりとした輪郭を与えて
「こちらの世界」に引っ張り上げてくれる力だ。
 

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けれど言葉と対峙していると、
言葉よりももっと
頭や胸の中にあるものは風味豊かで滋味に満ちているのに、
とじりじりとした乾きを覚えることがある。
 

イギリス・フランス旅行 268
 

昔の自分の覚え書き。
「言葉になる前の世界は混沌で、曖昧で、
ガスのように手応えなく散らばっていくシーンと思考の差異の連続で、
これをきゅっと束ねて形を与えるものこそ言葉。
けれど感情も思想も物体も一切は混沌のクッキー生地で、
まるでそれらを言い表すことは型抜きのよう」
 

思うことを書きつけているとき、
わたしたちは幼い手つきで
神様の真似事をしているように感じたりもする。
 

どんなに上手に型を抜いても
切れ端の出るクッキー生地を前にしたときのように、
書いても書いても伝えたい思いが取りこぼされるたび、
神よ、もしわたしがあなただったら、と冗談のようなことを思って
小さく笑う。
 

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